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美川仏壇その魅力の背景

美川仏壇の歴史は古く、室町時代にまでさかのぼります。15世紀半ばにはすでに美川での仏壇製作の記録が残っています。仏壇の技術が本格的に伝わったのはその十数年後、加賀越前の国境近く吉崎に蓮如上人が入られた時でしょう。
その際、蓮如上人が京都より多くの職人を連れてこられたのです。その後、加賀における爆発的な真宗の普及とともに仏壇造りは益々盛んになっていきました。

山本洋二
美川仏壇TOP

美川仏壇の歴史

加賀藩の文治政策

江戸期、前田家は文治政策によって美術工芸の振興に注力し、全国屈指の工芸立国へと至ります。輪島塗、山中塗、九谷焼、加賀友禅など全国に名だたる工芸が花開きます。美川仏壇は加賀百万石の豊かの文化に磨かれ洗練されてゆきます。江戸中期以降は北前船の隆盛と天才湊屋村次郎の登場によって全国にその名を知られるようになってゆきます。

名工 湊屋村次郎

美川仏壇を一躍有名にしたのは江戸中期の名工、湊屋村次郎です。仏壇造りの全作業を一人でこなしたという彼は、美川の職人に伝説のように語り継がれる存在です。様々な試行錯誤のなかで、彼は今日に伝わる美川仏壇の特徴を産み出していきました。中でも「堆黒」(一般的に漆芸で言われる堆黒とはことなります)の技法は、今もわずかな職人ではありますが連綿と受け継がれ、美川仏壇を特徴づける技となっています。

堅牢な造りを生んだ背景1北前船

往時の美川は北前船の寄港地として栄え、全国との物流が盛んに行われていました。美川仏壇も重要な産物として海路はるばる全国へと運ばれたのです。しかし、全盛期18世紀中庸の北前船は500石から1000石積みのベサイ船で、決して安全安定した航海とはいえなかった。そのような船積みでの長い航海に耐えうるために、他に類をみない堅牢なホゾ組木地が生まれたのです。

堅牢な造りを生んだ背景2 暴れ川手取

美川は暴れ川と呼ばれた手取川の河口の両岸に位置する町です。かつて、手取川はいくどとなく決壊、氾濫し、流域を水害で悩ましてきました。美川仏壇はそのような土地柄で、水害に強い塗りを施す必然性がありました。水に漬かったとしても修復可能な塗りです。そこで、美川で頑なに守られてきたのが錆下地です。一般的に、手造仏壇の産地でも下地にニカワを混ぜるブッシ地(泥地)が使われています。これは、施工が用意で熟練を要せず材料も安価に抑えられるからです。しかし、ニカワは水に溶けやすいため耐水性は望めません。そのため美川では、敢えて汁椀にも用いられる錆下地を選択したのです。水害対策の塗り技法によって、同時に北前船での塩害にも対応できたといえます。